令和2年度、SJISはオンライン学習により幕を開けました。統計では、世界の51%の人がインターネットを利用することができるようです。残りの49%の人はオンライン学習を受けることはできません。そう考えると、離れた場所でも学習ができることは、実にありがたいことです。今回、保護者の皆様に惜しみないご協力をいただき、本校はオンラインでの学習を進めることができました。改めて感謝申し上げます。

さて、視点を学校の教員という立場に移してみます。学校は教育を実践する場所であり、教師は教育の担い手です。教育という熟語ですが、「教」と「育」という二つの漢字から成る熟語です。「教」は教える・教わる。「育」は育てる・育む。この文章を読まれている皆様は、教えることと、育てることのどちらがより難しいとお考えですか。私は、教師としても、親としても、育てることの方が難しいと考えています。そして、育てるには多くの時間が必要だとも考えています。話は変わりますが、教員は学習指導をするにあたり、一週間の学習案を作成します。一般に週案と呼ばれています。しかし、私の場合、力の無さ故か、計画した通りになど進んだ試しがありません。いつもどこかで何かが起こり、あるいは再度学習を補う必要が生じ、計画したものを修正しては、また次の週に繰り越すといったことを20年近く続けています。

その理由について、今回のオンライン学習を通じてようやく理解できました。オンライン学習の期間中、私は週案を修正することがありませんでした。計画通りに学習が進むことに違和感を覚えながら、何かが足りないと感じていました。それは、教師から生徒への一方通行の授業に原因があったのです。オンラインによって、教える作業こそしていましたが、教わることができているのかどうかの確認が不十分でした。時が過ぎ、4週目から学習が対面式に移り変わりました。これまでは何だったのだ!と思うくらい、様々なことが停滞しました。まったく計画通りに進まなくなりました。その時に気付いたのです。その停滞こそが、生徒の育ちを待つ時間、いわゆる教育の「育」の部分なのだと。一人一人の実態が見えてきて、そこに寄り添い、合わせるからこその停滞。やはり教育は、人と人との関わり、ふれ合いによってなされるものなのだと、オンライン学習から学びました。

子どもたちと日々を共に過ごせること、当たり前すぎて分かりませんでしたが、その幸せを噛みしめている毎日です。5年1組の学級担任として存在できること、毎日たくさんの子どもたちに声をかけてもらえること、たくさんの笑顔を見ることができること。当たり前に感謝です。

Y5-1担任 山田英二